日々是暇

子供の相手が好き?

Sense of Wonder

日曜日に友達から訊かれた質問。子供(自分の子供ではない)と一緒に写っている写真が多く「子供が好き」だと思われた。

ちょっと考えてしまった。もちろん「嫌い」ではない。だからと言って「大好き」というわけでもない気がする。自分の子ではないからかもしれないけど、子供と一緒にいることが幸せという性格ではない気がする。

いとこたちが年齢が離れていて、だから割と学生時代から小さい子の世話はしなければいけない立場だった――と言いたいところだけど、それも実のところ兄に任せていた。兄が小さいいとこの相手をするのを見て「ああ、あの様に接するのか」と思っていた。この時期が下地になったかは分からないけど、少なくとも「子供が苦手」にはならなかった。

社会人になって、先輩方のお子さんと接するようになって、最初は過去の見よう見まねで対応していた。普通に「可愛い存在」としてだ。ただ、たまに現れるから全力で可愛がれるというもので、親ともなると違う感情もあるだろうなと。

それから「子供好き」に思われることが多くて、それ自体は嬉しいことではあるけど、その呼ばれ方に自分の心がマッチしない感じはしていた。

で、先日その質問が来て、改めて考えてみたときに、「子供の相手が好き」ではなく(もちろん「嫌い」と比較したら「好き」だけど)、「子供の相手が面白い」という感覚が自分の中に強いのだと。

子供は面白い。特に言葉を話し始め、増やしている最中の子供はすごく面白い。大人がオブラートに包むような表現も、数少ない語彙の中からクリティカルなものを選んでくる。無邪気に、ときに残酷なまでに。

本当はそう思っていたこと、そう言いたかったいたこと、今では何故か言えなくなってしまったこと。そういう言葉たちを、子供たちは思い出させてくれる。

まだ言葉を喋れない子供もまた面白い。五感が欲するものに一直線だ。今何を思っているか、何を欲して泣いているか、想像するだけでも楽しい。

ちなみに最近になって「センス・オブ・ワンダー」を読んだのだけど、公園とかで子供が不意にどこかを「あ」と指差すあのとき、あれが「センス・オブ・ワンダー」なのだと思っている。

面白がっているだけでは失礼なので、接する時には自分の持つ多くの表現と行動を見せるようにしている。例えば、頼まれて一緒に山に連れて行くときには、普段はやらない料理をしたりコーヒーを挽いたりする。

記憶の欠片に「こんなことをしている人がいた」くらいで良い。いや、僕という存在じゃなくて「こういう行動を見たことがある」でも良い。

未来に想像できる選択肢を増やしてあげることが、大人の責任だと思う。

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