最近、不安な情勢の中にあって、SNS上でやたら過激な発言を目にすることが多い。左右問わずで。
エコーチェンバーについて考えたときと、ほぼほぼ同じことを、いよいよ強く感じてきたので、今日はもうちょっと具体的に考えてみました。
「思考」というのは一つの器だと考えます。最初は空っぽです。
そこに「情報」を注ぎます。情報はそのままでは情報に過ぎず、あくまで「思考」の材料です。情報を自分で混ぜて(考えて)、思考が出来てきます。
本来は情報を色んなところから均等に注ぐことが理想ですが、人間である以上それは難しい。時間も限られている。どうしても偏りが出てしまいます。この偏りを生むのが「感情」なのでしょう。
この感情が強い人が増えてきていると思うのです。感情が強いから、最初からとる材料(情報)を決めてしまっている。もう一方、他方なんて存在しない、または悪と決めつけて、見ることすらしない。
こうして純度100%の「保守」または「リベラル」の思考を完成させてしまう人が増えてきている。
「どっちつかずになれ」「中道であれ」ということを言いたいのではなくて、自分が手にした情報に極端な偏りはなかったか、自身でせめて一度くらいチェックしてみたか、「振り返って」みて欲しいということ。
加えて言いたいのは、思考の器を自分の意見だけで完全に満たさないで欲しい。自分を正しいと思いこみ、それに沿った情報をドバドバと流し込んで、これ以上一滴も入らないくらいに埋めてしまう。この荒っぽい「注ぎ方」も「感情」と言えるでしょう。
偏りながらも思考を持つこと自体は良いとして、それは器の7〜8割くらいにしておくのが良いと思います。自分と同じ意見は気持ち良くて、つい多めに入れてしまうのは分かります。それでも、2〜3割、他の意見(異物)を入れられる余裕を持っていたい。それはとても苦いかもしれないし、やっぱり反駁してしまうかもしれないけど、より確固たる思考を作るためには必要なプロセスだと思います。
この割合の大きな人が「寛容な人」、そもそもの器自体が大きな人が「器の大きな人(そのまま)」なのでしょう。
僕自身は器が大きくないので、せめて寛容な人を目指して、情報と向き合っていこうと思います。