東畑開人さんの「心はどこへ消えた?」が文庫化された。単行本版がAmazonのウィッシュリストに入れっぱなしになっており、この度やっとのことで購入・読了。
今作も本当に素晴らしいエピソードたちだった。文春の連載時期にちらちら見ていたので、知っていた話もあったけど、それでもそのときの感動は色褪せない。
コロナ禍以降の世相から、それに応じた過去のクライエントとのエピソード、その人たちの「変身」の物語、世への提案・感想……重いテーマもジョークを交えながら軽やかに語られる。その中のところどころで自分の心の知らない(知らないふりをしていた)箇所をそっと撫でられ、心の形が少し浮かび上がってくるような一冊だった。
心理士のエッセイとしての感想については、またどこかで書こうと思うけど、中でもこの週末色々と考えさせられたのが次の一言だった。
私たちは物質を愛することはできても、情報を愛することはできない
東畑さんは手紙でお便りでもらうことの喜びの本質を、このように書かれた。
僕が手紙を書き始めたきっかけは「SNS時代における“共有”へのアンチテーゼ」みたいなところで、手紙の良さは漠然と感じてはいたけど言語化できてはいなかった。まさにど真ん中に突き刺さった言葉だった。
思えば、僕が未だにスマホやタブレットでの読書に慣れないのもこういうところにあるのかもしれない。書かれている文字は同じでも、紙にのったそれらは「物語・言葉」として入ってくるのに、電子デバイス上だとどこか「情報」に見えてしまう。それを上手く愛することができないのかもしれない。
さらに例えば「写真」。インスタントカメラで撮った写真を現像してファイリングする、という活動は以前書いたとおりにまだ続けていて、そのアルバムをパラパラとめくる楽しさを味わっている。それはスマホの画像をフリックしていくのとはどこか違うのだけど、上記の言葉にあわせるなら、僕はどこかでスマホ上で表示される「写真」は「画像」と判断しており、「アルバム」のつもりのものは「フォルダ」に過ぎず、半分「情報」として見ていて、やはり愛がのらないのかもしれない。
さらにさらに連想すると「音楽」。以前ライブの大事さについて少し書いたけど(「音は触るもの」)、おそらくサブスクでイヤホンで耳だけで聞くそれは「情報」ではないか。演奏する人、鳴らした音が空気を振動させて、自分の身体を包み込む……それが「音楽」じゃないか。(どんどんチケットが高騰して、そういう意味での「音楽」を楽しむハードルは高くなってきてしまっているが)
ちょっと前、イヤホン時代においても、CDやMDという「物」で聴いていたときには、聴くことというよりそれを持っていること自体に愛があったと思う。僕はiTunesで聞いているものを、どれだけ愛せているだろうか。
そう、「触覚」が大事な時代が来るんじゃないか、いや、もうすでに来ているんじゃないか。愛するには「触覚」が必要なんじゃないか。AIは情報として「視覚」「聴覚」を楽しませる最適解は出してくれるだろう。でもそれらの情報に触ることはできない。触れないから、心の底から愛せない。
ふと、自分の仕事を振り返る―――「WEBデザイン」。紙のデザインではないから、根本的に情報を物質化することは出来ない。ポスターとかにならないから、リニューアルやサービス終了の際には跡形もなく消える―――
この虚しさを感じると同時に、ここに何かヒントはないかと思っている。逆転の発想「情報を愛してもらう」。
今までは「情報整理」が仕事だと思っていた。でも、画面上ではあるが、出来る限りのっている情報を愛してもらえるような、そういう姿勢・工夫が必要で、その方法を考えていかないといけない……と、多くのデザイナーが気づいているであろうところを、僕は今になって言語化できた。
他にも「触れるWEBデザイン」とかよく分からない単語が出始めたところで、話題がとっ散らかってきたのでいったんここで閉じる。
適当なタイトルをつけてしまった。今後何か見えてきたら、そのとき改めて言葉をあててみようと思う。
P.S.と締めた直後に、でもAIのキャラクターと結婚するくらい愛せる人もいるよな~と。その人にとってはそのデバイスに表示されるキャラクターは情報を超えている。
「愛する」という動詞の無限の広がり―――を感じて、またとっ散らかってきたので、今日はもう編集しない。