
日曜日に国立ハンセン病資料館へ行ってきた。なんで行こうと思ったのか、しばらく思い出せなかったけど……恐らくの理由はまた後日。
ここはハンセン病という病気への「正しい知識」と「差別の歴史」を振り返る資料館。大きく3つの部屋に分かれていて、1〜2で歴史や施設での生活の実態を紹介し、3で人権復活のための運動と現状を展示している。


1〜2ではとにかく勉強。授業やWikipediaで少し触れた程度の知識しかないので、実際の資料と共に語られるハンセン病の歴史・実態の見学はかなりの重さを伴った。全展示の文章をじっくり読んでいたら軽く1時間以上経っていた。

個人的に特に良かったのは3セクション目に展示されていた、患者たちが取り組んだ文化・芸術のコーナー。境遇はこうあっても「生きていることを楽しみたい」「表現したい」という、僕たち一般人の趣味とは一つ体重のかけ方が違うそれらには、明らかに魂がのっていた。

ところで、僕が学んだ「正しい知識」と「差別の歴史」――果たしてその時代の人たちは、自分たちが「差別」をしているという自覚があっただろうか。
多くの人は公衆衛生のための必要なことと思っていて、自分たちがやっていることが「残酷」とは思っていなかったんじゃないだろうか。
「善い」とまでは思えなくても、「普通」くらいに思っていたんじゃないか。それが当時の「正しい知識」だったんじゃないか。
近現代の化学が病気の正体を暴いて、やっとハンセン病は「理解」の内側に入り「恐怖」の対象から外れた。少なくともハンセン病に関しては正しい知識を得て、過去を過ちとし、是正された現在を生きている(まだ解決すべきことは残っているが)。
さて、それ以外について今、僕たちは正しい知識で正しい時代を生きているのだろうか。
まだ理解できていないことがある。放射線、新型コロナ、AIとの付き合い方……
理解できないのは怖い――「未知への恐怖」は当たり前で、それは生きるために必要な機能だ。
だけど実は理解できない以前に、認知していない間違いも存在するんじゃないか。
「ハンセン病患者は隔離」が「普通」「常識」とされて見過ごされていたような、そういう目に見えない「大きな間違い」に包まれていることもあるんじゃないか。
見えていないだけで、100年後からは残酷に見えることもあるのだろう。
「100年前は資本主義だったんだって、残酷だね」
こう言われている未来もあり得るかもしれない。現代の東京で「普通」ど真ん中に生かしてもらっている僕には、無自覚の残酷に気づける自信は、あまり無い……
残酷は恐らくどこにでも存在している。自分では気づけないとしても、小さな声、声なき声に耳を澄ませないといけない。

追記:全展示の中で、強烈に僕の印象に残ったのは以下の文章だ。
私をして死を思わしめるものは、人より受ける同情である。同情!これほどたまらないものが他にあるだろうか。それは同情されねばならんほど自分が無価値で、無意義な存在を証明するものだ。
北条民雄
もちろん、これが全ての患者の声の代弁ではないだろう。北条さんは「人に嫌われるのはいやだけど自分に孤独に堪える力があれば良い」と思える強い人だ。
でも、ときに「同情」もまた「残酷」になり得ることにも、僕たちは気をつけなければいけない。自分自身が他人にとって無自覚の残酷になる可能性もあるのだ。