日々是暇

「戦っている」という存在表明

先日のTokyo Pride 2025と、「わたくしがYES」を読んでの感想に、自分が避ける露骨な政治家批判も、マイノリティからすれば自分たちを守るための必死な行為であり、そういう戦いの姿勢自体は理解できると書いた。

彼・彼女らは、スタンスで雑にくくるなら、「リベラル」側だろう。少数派の声を届けようと、ときに過激なパフォーマンスも行う。

一方で、もう一つ僕の苦手なタイプに、(これも雑にくくるなら)「ネトウヨ」と言われる層がある。「男女平等」「LGBTQ」「移民・外国人」といった話題に、脊髄反射で反対する人たちには疑問を感じる。(要は左右ではなく「極端」なスタンスの人が苦手なのだと思う)

まぁ、僕もときに啓蒙主義で説教臭くなってしまう過激なリベラルに眉をひそめることはあるけど、理想としているところは間違ってはいないと思う。個人的に問題はそれに至る速度や行動だと思っていて、そう簡単に社会のルールを変えてしまうと混乱が起こるから、しかるべき障害をクリアしてからやるべきじゃないかと。こういうスタンスなので、「理想」に対して少しの反対意見も許さない過激なリベラルにも、上記の文字列だけで「反日だ」と騒ぐ過激な保守にもちょっとうんざりしている。

そして個人的な問題は、そういう人物が身近にいること。社内の先輩なのですが、そういう意見を現実で表明してくるので、どう返せば良いか分からない(たいていは苦笑いして流してしまっている)。失礼ながら他の友人たちとの議論の俎上にのせてもらってしまうこともある。

ただ、リベラル側の「戦い」があったように、先輩(彼ら・彼女ら)にもそれは「戦い」なのかもしれないと、最近の体験・読書から想像する。

統計的に「ネトウヨ」と呼ばれる層にはロスジェネ等の男性が多いと聞く。その立場からだと、自分たちよりも優先されようとしている人たち、それを推進する社会の潮流は優先順位が違うと思うのかもしれない。

だからSNS上であちこちと戦う。小さかろうが声を上げる。戦うことで存在を表明する。戦っている自分にアイデンティティを求める……

それ故に「戦い」自体が目標化されてしまっているきらいを感じるのだけど。でも、その背景一つ一つにストーリーが存在するんじゃないかという、当たり前の想像を再認識した。

まぁ、とは言え、双方「礼」を失わない程度にすべきとは思いますが…

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