とは言うが―――
スリランカに旅行に行った友人から手紙をもらった(手紙よりも先に本人が帰ってきてしまったが)。
その友人は紅茶&お茶が好きで、スリランカは長年、いつか行きたい国の一つだったらしい。日程が決まってからというもの、ガイドブックを読み込んで、計画を立てて…(とは言っても彼女はTHE 旅人であり、余白は十分にとっているようであった)
そして実際に広がる茶畑の景色を見て、泣きそうになったらしい。夢の一つを目の当たりにしたのだから、そうなるのも当然でしょう。
さて、表題の「百聞は一見にしかず」ということわざ。基本的に異論はない。実際に見た景色は、筆舌に尽くしがたい。よって、見た人から聞いただけでは伝わり切らないと。
一つの真理としてそれはあるものの、最近どうだろう、「一見」を過大評価していないだろうか。
行って、写真を撮って、SNSにあげればもうそこを「知った」気になってしまってはいないか。
実際にそういう人と話したことも多々ある。「どこへ行った(有名な観光地)」というのに対して「どう感じたか」を訊いたものの、その漠然とした説明からは抽象的な色彩しか浮かんでこず、先の友人の茶畑の景色から肌をつたってくるような感動は受け取れなかった。
「筆舌には尽くしがたい」とは言ったけど、感情の入った「一見」の思い出話からは確かに伝わる熱があるものだ。
「行ったことがある」という経験をステータスのように使うようなSNS文化は、そろそろ終わりを迎えるんじゃないか―――と思い続けて、早10年。
「一見」の価値は確かに代えがたいものだけど、自分の中に「百聞(まではいかなくとも)」くらいの感情を込めないと、かけがえのない「自分だけの経験」にはならないんじゃないか。友人からの手紙(の熱)はそんなことを思わせてくれた。