日々是暇

歳をとることは悲しさを知ること

「歳をとることの一番の価値ってなんだろう」。40も近くなってきて、折に触れては考えている。

去年末から色々とあった中で見つけた一つが「悲しさを知ること」ではないかと。

「楽しさ」は、子供のころから大きくは変わらない。「美味しいものを食べた」「面白いものを見たor聞いた」……もちろん細かくみれば美味しいものも面白く思うものも変わってきているだろうけど、基本的に大人も子供も同じように笑って楽しむ。
(ただ、漢字が変わってきたようにも思う。「楽しさ」から「愉しさ」へ。内的要因からの「愉しさ」の種類は歳をとって増えてきたかな。)

でも「悲しさ」は一つ一つが経験したことがない固有のものだと思う。その痛みを完全に知っているのはその人しかいない。励ましはときに意味をなさないこともある。

でも、似たような悲しさを知っていれば、その核の近くまで理解してあげて、寄り添えるかもしれない。少なくとも肩をかすことくらいは出来るかもしれない。

悲しさをたくさん経験するのは(もちろん辛いし知りたくもないものが多いけど)、悲しさを理解してあげられる人が増えるということだと思う。いずれ終わるという悲しさが基底にある人生で、それはせめてもの、でも大切な収穫だと思う。

耐えられるだけの悲しみをもらって、また一つ人生の味を知った僕は、似たような体験に苦しんでいる人に少しだけ寄り添えるようになった。

そう思うことで、悲しさをも、引いては全ての人生を肯定したい。

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