真木悠介さんの本。これを読んだのはもう1年以上前なのですが、最近思うところが多く、一部振り返ってみる。
この本で一番驚いたのは、昔の人類、あるいは今も原始的な生活を送っている民族の一部には、「未来」という概念が存在しないということ。人生は「現在」の積み重ねでしかなく、今生きていれば十分なのだろう。
僕は、そういう考え方も有りだと思う一方で、それでは計画も立てられないし、人生設計が出来ない……どちらかと言えば「かわいそう」な部類に思ってしまった。
ただ最近、母が病気になってしまった。60代半ば。その病気から精神まで病んでしまい、本当にかわいそうだった。
僕は自然とこう思った。「まだ若いのに」と。
今や平均寿命は80を越え、「人生100年時代」とか言われる。みんな漠然とそこまで生きるのが普通に思い、そこから逆算して人生を設計している。
そんな現代に60代で死ぬ可能性が見えてしまうのは、「不幸」としか思えなかった。60代で亡くなってしまうかもしれない母も、30代で両親を失ってしまうかもしれない自分も。
そんな中でこの本を思い出した。その未来の概念がない人たちにとって、これは不幸なのか。
少し違うのかもしれない。「何歳まで生きるのが普通」というものさしが無い。想像でしかないけど、誰かが亡くなるとしても、その人はこの時点で亡くなるのが「運命」だと思ったんじゃないか。肌がしわしわになるまで居る人もいれば、やっと狩猟が出来るようになってきたところで居なくなる人もいる。ただ、それだけの話……なのかもしれない。そこに居なくなる悲しさはあるだろうけど、そこに他と比べた悲しさはない。ただ純粋に存在の不在に向けた悲しさだ。
母の面会に、精神病棟に入る。他の患者さんとは接さないけど、誰もが何かしらの心の問題を抱えて、ここにいる。母も含め、なぜこうなってしまったのかは分からないけど、こと「不安」の原因は「未来」という概念からやってくるんじゃないかと思った。「未来」を思わなければ、そこに向けて嫌でも歩き続けなければいけない不安はなくなるんじゃないかと。果てしない「未来」に押しつぶされてしまう人は案外多いんじゃないかと。「今」というこの一歩だけ見続ける方が幸せなんじゃないかと。「未来からの解放」という言葉が過る。
こうして、僕は「未来」が少し嫌いになったりした。
母の治療はゆっくりと進み、少しずつ快方へ向かっていった。入院当初は痩せこけていた顔に、少しずつ生気が戻ってくる。
日に日に顔色が良くなっていく母を嬉しく思う―――この嬉しさもまた、「治った母が帰ってくるであろう“未来”」から来るのを、それもまた当たり前に感じた。
今では一時帰宅も許可されており、嬉しそうにちょっとした家事や庭の水やりをしていく―――その嬉しさもまた、「自分が少しずつ良くなっていくであろう“未来”」を母が想像しているからだ。
ネガティブに陥って忘れてしまっていたけど、「希望」もまた「未来」からやってくる。「未来」によって僕たち家族は、少しずつ幸せを取り戻しつつある。
人にとって「未来」は何なのだろう。必要なのか、むしろ害であるのか。
両方なのだろうと思う。これに答えられるほど、僕たちの人生は長くない。
でも改めて思うのは、古代人も現代人も、常に人類に共通しているのは「今」を出来る限り生きること。「未来」がどうあれ、それに続く「今」を精一杯生きて、それが「過去」になった未来で後悔しないように生きたい。