昨日は新潟市内を散歩していた。主に西大畑という町で、ここには古い町並みや家屋が点在している。
訪れたうちの1つが旧齋藤家別邸。新潟三代財閥が一角のお屋敷。




北向きに配された庭と、それを眺めるために北に開かれた広間は、外気温35℃の本日でも、不思議なくらい涼しかった。工夫次第ではうちわだけでも大丈夫な環境を作れることが分かったが、それにはこれだけ広い庭と広間、海風が必要なことを考えたら、ここでしか成立しない意匠だなと思ったり。

この様な日本家屋の他にも、町の中のいたるところに、昔を偲ばせる風景が点在している。変に観光地化されていないのも良い。
こうして散歩しながらふと思ったのは、「『残す』と『遺す』の違い」について。
「残す」の方は、多分に無意識なものを含んでいると思う。もちろん辞書的には意識的なものもあるけど、「残骸」「残飯」のように、仕方なくといったニュアンスが含有している気がする。
一方の「遺す」は、概ね意識的に行われる。それもある程度の敬意をもって。上のキャプションに書いた「遺構」も「遺す」だ。
そこからさらに考えたのは、今の時代に「遺す」価値があるものはどれだろうか、そもそもあるのだろうか、ということ。
旧齋藤家別邸や煉瓦塀も、当時の人たちからすれば、ただ「残した」だけのものだろう。それを後世の人たち(つまり今の僕ら)が明治という時代の意匠に敬意をはらって「遺そう」とした。
安藤忠雄や隈研吾のような大建築家の作品としてではなく、遠い未来の人たちが令和(ないし平成)という時代に敬意を払って「遺そう」としてくれるもの……多様化の進むこの時代からでは「残らない」んじゃないかと。
別にそれが悪いとは思わない。何も「残らない」ことが、「多様化の時代」として「遺る」ことも考えられる。そんなことを思いながら、とりあえず今ある風景を写真に撮っていく。未来の誰かが、何かを思い出してくれるように。